代表者ごあいさつ(平成29年8月16日 修正)

中島 隆史 (沖縄県社会保険労務士会会員)

代表の中島隆史です 
よろしくお願いします

令和2年7月現在 三分刈りです

アマチュアのシンガー&ソングライター・中島拓三だったころ(岩手・陸前高田にて)

資格

行政書士資格 平成6年1月(平成5年度 第16号)

宅地建物取引主任者資格 

平成6年11月(埼玉 第008378号)

損害保険募集人試験 平成20年10月(第0001-0382664号)

年金アドバイザー2級 平成22年4月(115-4601-2-0011

宮古民謡コンクール優秀賞 平成20年6月(宮古民謡保存協会)

沖縄民謡コンクール新人賞 平成27年6月(沖縄民謡保存会)

沖縄民謡コンクール優秀賞 平成29年6月(沖縄民謡保存会)

 

経歴

なかしま たかし (なかじまではありません)

昭和42年8月24日生まれ(おとめ座)

 本籍 鹿児島県 

父の転勤の都合で東京都荒川区⇒世田谷区⇒横浜市港北区⇒埼玉県吉川市⇒埼玉県草加市 と転々とする

昭和61年3月 埼玉県立草加南高等学校 卒業

平成2年3月 帝京大学法学部法律学科 卒業

 卒業後、アマチュアのシンガー&ソングライター(芸名:中島拓三)として活動しながら、いくつもの職を転々とする

平成13年1月 両親の定年を機に鹿児島に転居し、さつま日置農業協同組合(鹿児島県日置市)に入組  債権管理・回収業務を4年半歴任

 住宅ローン・農業資金融資業務・貯金オンライン事務長・年金アドバイザーを6年歴任  在職中に社会保険労務士試験合格

平成23年8月 試験合格(平成22年)を機に退職し、沖縄に転入。「なは中島事務所」開業

平成24年4月より平成28年3月までの間

沖縄県社会保険労務士会の委託による、那覇年金事務所での年金相談窓口協力員として対応(毎週水・木 延べ3000人の相談対応)

平成27年2月より平成29年9月までの間

琉球大学医学部附属病院がんセンターにおける、がん患者就労支援相談員として対応(毎月第3金曜担当) 

平成27年7月より平成29年5月までの間 沖縄県社会保険労務士会業務推進委員会 副委員長就任

平成28年4月より令和3年5月まで 労働保険事務組合沖縄SR経営労務センター理事・事務局長就任

平成28年10月15日 業務のほとんどが、障害年金請求業務になったことを契機に事務所名を「オフコース障害年金プラーザ」に変更

平成29年7月より令和元年5月までの間 沖縄県社会保険労務士会総務委員会 副委員長就任

平成31年4月1日 事務所を宜野湾市宜野湾1-3-1に移転

所属

労働保険事務組合沖縄SR経営労務センター 会員(平成28年4月より)

沖縄民謡保存会 喜屋武流喜盛の会 米盛正 民謡研究所研究生(豊見城市座安)(現在休業中)

コミックロックバンド「たくちゃんず50」リーダー ボーカル&ハーモニカ担当(埼玉県越谷市にて活動中)

平成29年10月8日埼玉県越谷市「ライブハウス メンフィス」にてライブ実施!

令和4年10月 埼玉県越谷市にてワンマンライブ実施予定

三線を持つ中島

ごあいさつ

テレビに映った中島(平成28年10月)

バンド練習で歌う中島(平成28年5月)

このページを読んでいただくと、私についての経歴、人物、社会保険労務士としてのキャリアや、ものの考え方等を知ることができるかと思います。

平成28年の2月、東京にて、「奥田開業実践塾(旧:IDE開業実践塾)」のカリキュラムのひとつとして、ここの実践塾出身の先輩としての立場から、後輩の受講生の前で開業体験発表をさせていただく機会があり、その発表のために書いた原稿をここで掲載しています。

今回、ホームページで公開することで、多少の後悔も発生するかもしれません。
でも、漕ぎ出した船は航海していくのみです。
ここまで自分をさらけだすのは、正直恥ずかしいですが、まあ良いでしょう。同業者からはひんしゅくを買うのでしょうが…。(わざと言葉遣いを汚くしている部分がありますが、ご容赦願います)


みなさんこんにちは。奥田先生のご厚意で、IDE開業実践塾開業体験談をお話しさせていただきます。私は、沖縄県社会保険労務士会会員の中島 隆史と申します。昨日の飛行機で成田空港にやってきまして、昨日は千葉の妹夫婦宅に泊まっていました。

皆さまは11期生とのことでありますが、私は6期生でして、今から5年前になるのですが、皆様と同じように、この講座を受講しました。活躍されている諸先輩方の先生のお話をたくさん聞きまして、「自分もいつか、こうやって皆さんの前でお話しできる機会が来るだろうか? 来れば良いな…」と思っていましたが、ひとつ目標がクリアできたかなという気持ちです。

皆様方に置かれましては、すでに何回か開業体験談をお聞きになられておりまして、素晴らしい体験談や成功例をお聞きしているはずです。前回は福岡の大城悦徳先生が担当されたそうですね。私は大城先生とはSNSつながりでして、昨年福岡でお会いしましたが、人格・経歴・経験すべてに優れている素晴らしい先生でしたので、多くのためになるお話をお聞きしたかと思います。

今回、私についてはびっくりするような成功例ではありません。どちらかといえば赤裸々な失敗談も出てきます。ですので、社労士資格に夢を持たれている方は、がっかりされることになるかもしれませんが、現実を知っていただくのも、たまには良いのではないかと。また、なんだかんだ言って、廃業にならずここまで続いているのには理由があるからでして、その理由は私のお話を聞いていただいた上で、皆様方で各自お考えいただくこともよいのではないかと。
お話を聞いていただいて、その中で皆さまの中で、参考になる部分、だめな部分は判断していただくでよいかと思います。
では、30分間どうぞよろしくお願いします。

1.合格から開業までの経緯

合格から開業までの経緯ということでありますが、自己紹介もここで兼ねる形になるのですかね? 平成22年度の試験に3回目の受験で合格しました。当時私は鹿児島県内のJA職員でした。で年末の合格祝賀会に参加しました。祝賀会の案内がIDEから送付されたのですが、その中に奥田先生主宰の開業実践塾の案内がついておりまして、それを見て、興味を持ったわけです。で、祝賀会で奥田先生とお会いして気持ちが固まりましたね。私はそのころは事情があって独り身でしたので身軽ですから、翌年すぐに当時勤務していたJAを退職し、鹿児島から上京し、マンスリーマンションを借りて、実践塾に参加したわけです。

2.開業はしたものの…

実践塾のカリキュラムを終えて、7月には連合会の事務指定講習を修了しました。そのころは沖縄での住まいを決めていましたので、そのまま沖縄に戻り、開業登録をしました。
沖縄会の場合、登録時には、県会の会長、総務委員長との面談があります。(今はあるのかな…)面談では会の組織の説明や、現状、活動内容の案内がありまして、その中で社会保険労務士会政治連盟の案内もあります。今後、登録をお考えの方に置かれましては、自分の予定時期に開業ができるかということもありますので、登録の前に一度事務局への問い合わせを勧めます。
面談を経て、8月15日付けで登録がされました。さて、沖縄に縁もゆかりもない私、何をしましょうか。

6期生ですでに開業していた埼玉県の福本秀樹先生、この方は6期生の取りまとめもされている方でして、人事制度にかなり詳しい先生ですが、この福本さんが、沖縄に知り合いの社労士がいるとのことで、その沖縄の社労士に「今度中島という人間が那覇で開業するからよろしく」と言ってくれたようです。その先生、今は沖縄県会の理事をされています宇野一博先生なんですが、宇野先生から電話連絡がきたんですね。で、すぐ会いに行きました。そこで沖縄の現状をお聞きしました。宇野先生は当時、助成金の紹介をされるグッジョブという窓口での相談員対応をしている方でしたので、まずは助成金についていろいろと教わりましたね。

並行してまず、少ないながらも、沖縄の知り合いに対して開業挨拶に行きました。まったく何の役にも立ちませんでした。今いろいろ仕事をこなしていますが、このとき挨拶した人間からはただの一件も仕事はありません。つまり、どうでもよい人間に挨拶に行ったという大変無駄なことをしたわけです。まあ、皆様も開業の際はあいさつ回りをすると思われますが、会う人は選んだほうが良いですね。

同業者への挨拶もしましたね。当時那覇には100人近く会員がいますので全部に挨拶はいけないな。で、私は家の近くの事務所を10か所くらいピックアップして回ってね、挨拶しました。那覇市は、4つの市町村が合併して今の那覇市になったそうでして、旧4つの市町村のひとつの地区が私の住んでいる地区であったのですが、そこに絞って挨拶周りをしましたが、ほとんどの先生からは無視状態でした。当たり前ですがね。(今思うと、失礼な態度取りやがってと思いますが…)

しかし、あるベテランの先生から電話があって、この先生は今でもよく私に何かとお声をかけていただいていますが上原宗男先生といいまして、宗男先生は開口一番「俺はこの仕事を20年やっているけど事務所にまであいさつに来た会員はお前が初めてだ、一度会わないか」となりまして。宗男先生とお会いしまして、県の現状なり、心構えとかを教えていただきました。
そして先生が、「沖縄には中小企業同友会という組織がある。自分もここに顔を出して顧問先をいくつかとった。ここに参加して、名前と顔を売りなさい」と言われまして。先生は同友会に電話して「中島を出向かせるからよろしく頼む」と。
でも同友会も半年参加しましたけど、お客にはなりませんでしたね。同友会に参加している社長や経営者は、沖縄でもある程度の大きな規模の組織の方なので、すでに契約先がある、また自分の事業所には勤務社労士を抱えている、そのような方ばかりでしたね。結局参加して顔を売っても役に立たなかったわけです。まあ、私のやり方も悪かったのかもしれません。

それから同友会と並行して、社労士の業務の王道は顧問先の確保ですから飛び込み訪問もやりました。まったくうまくいきませんでしたね。沖縄は8月9月は大変暑いので、下着を一日何回取り替えただろうということです。これは1か月でやめました。

DM、これは結構反響ありましたね。1週間に1回100枚程度はがきを出す。封書は料金も高いし手間もかかるので、はがきを勧めます。一番最初に挨拶した宇野先生から助成金についていろいろ教わったので、それで事業主が振り向くような文言を考えてデザインして出すと。そうすると100枚に対して3件くらいは反響があるのですよ。「興味があり、会いたい」と。で会いに出向きますよね。どうなったか? 反響をくれた事業所のほとんどが、なんと労働保険に加入していないのです。ですので、助成金利用以前の問題ですよね? 保険の話からしないといけない、いやウチは無理だよ、そんな金はないよと。なんじゃこれは、ですね(呆)。

労働保険は利用しているよと、でも相見積を要求されたりね。あっちの事務所はいくらだけど、お宅は? 値引きしないの? とかで、結局、土俵には乗っかったけど勝てなかったりで。
ま、値引きはだめですよね。長い目で見ると、自分をだめにしますね。ですので皆様方も値引きはしないように心掛けたほうが良いです。今の自分は、自分の仕事に自信がありますので、面談相手が値引きの話をしたら、私は即、席を立って帰りますね。引き受けてもロクなことはないですし。

で、DMをまくことを2か月ほどしていましたら、従業員70人規模の中堅事業所から反響がありました。「ウチは今社労士を使っているけれども、その社労士の動きが遅くてね。資格取得届お願いしても一週間放っておかれたりで。そんな状況でお宅からDMがきた。お宅の仕事ぶりによっては、顧問先をオタクにしてもよいと」そんな話あったら、ふつうは舞い上がりますよね? で、私はバカですから、見事に舞い上がったのですね。(笑)
で、いくつか助成金の紹介をしました。前の社労士は何も情報くれなかったと。で、この助成金使いましょう。委託契約する。で僕は長い付き合いしたいから、着手金ももらわない。じゃ、お前に給料計算も任せようかねと言われて、社員名簿や組織図までもらった。ここまでされたら、見込みたてちゃいますよね? でもここにも最後にはいいように使われて逃げられました。「実はウチに出入りしている業者から別の社労士のほうが良いと言われてね、で、お宅よりそっちの社労士のほうが能力高かったから」と言われてね。そのときは、断られたショックもありましたけど、能力が低いとあからさまに言われたのがショックでしたし「中島だからこの程度の扱いで良いんだ」と思われたのがほんと悔しくてね…。でも実力ないんですから仕方ないのかな。

まあ、そこの製品は俺の眼がたとえ青くなったとしても、または死んでも購入はしませんが(笑)。
向こうは「足代とか払いますよ」と言いましたが、完全にバカにしてますよね? どこまでバカにすんのかねって当時は思いましたな。


3 資金が底をつき

この肉屋事件、言っちゃった(笑)。は、やっぱ自分にとってすごく当時はショックでしたね。で、前後して別の事業主からは助成金の業務もらいまして、申請したけど条件に合わずに認定されなかったので、顧問契約の話がパーになった。
また、別の事業主から労働相談受けて、いろんな契約書類を作ったのに、やはりドロンされた。その事務所へ行ったらもぬけの殻だった。ドラマのようなシーンがほんとに自分に起こるのだなと思いまして。こんなことが立て続けに起きましたので、凹みますよね。で、開業したとき、何百万かを自己資金として用意していたんですね。でも、報酬ないわけですからね、出るものばかりですと当たり前ですけど、資金が目減りしますよね。

やばいと。まず、ホームページを解約し、中小企業同友会をやめ、一日二食、そして一食と減らしていきました。キャベツだけ一週間食べるときもありました。親にお願いして米や野菜を送ってもらいました。さすがに、金は…言えなかったですね。(今は三食食べていますよ)
溜めていたTポイントやポンタを交換したり、クレジットのキャッシングで家賃払ったりで。でも、バイトをしようとは思わなかったですね。やせ我慢、見栄というのか、そんなものが自分にはあって。一度やると味をしめるなと。楽をしたらだめだなと。履歴書書きたくないなと。転職多い人間でしたから、いろいろ恥ずかしい経歴しかないし。で、文無しになったころ、年金事務所での記録相談の業務をやらないかと、人が足りないので困っていると県会から話がありまして。背に腹は代えられず、始めたわけです。

バンド練習で歌う中島(埼玉県越谷市にて)

ハーモニカを吹く中島(平成28年2月)

4 難しい障害年金案件を決めたのが自分にとっての初仕事

開業してからの初仕事は、本来、今お話ししたようなことになるのですが、正直良い経験ではないですね。自分にとっては、障害年金でやっていくんだと決めてから、受けた案件を「初仕事」にしたいので、その話をさせていただきましょう。

仕事はありませんので、年金事務所の記録相談の業務を週2日こなして食いつなぎ、スポットで、年金の手続や、金融機関での年金相談。民間資格の試験監督員の業務や、労働保険年度更新とかの業務をこなして、日銭を得るという生活が続いていたのですね。DMを出す資金はもうありませんでしたね。
ほんとこのころは恥ずかしいというか、情けないという気持ちしかなくて。同業者の集まりや研修の場でも、下を向いて誰ともしゃべらない、ヘッドホンして音楽を聴いている、俺はみじめだと、最低ランクだと思い込んでいましたね。いろんな先生からは「頑張って顧問先とらないと」と言われていましたね。新しい会員にどんどん追い抜かれていく現状があるわけですよ。もちろん実践塾6期生の交流の場、MLにも参加しませんでしたね。発言もしませんでした。とにかく黙っていた。

そもそも「障害」でやっていこうと思ったきっかけというか、転機になったのは連合会で年金マスター養成員の募集があって、それに申し込んだときでしたね。この研修を受講しまして、年金マスターという称号を手にしたと。で、この研修は半年くらいの期間座学での研修があるのですが、それを修了した後に次は、実地研修というものがあります。ただこれは研修とは名ばかりで、要は年金事務所で、給付相談員の裏について、ただ一日見てるだけという非常にたいくつなカリキュラムでした。まあ、会話の内容とか書類の受理のしかたまで、もちろん役に立ちましたよ。でも当時は相談員は何も教えませんからね、(私は)部外者ですから。そういった旧社保庁というか、年金事務所との壁はあるんですがね。これを36回続けたのですよ。でも、10回以上経過したころですか、朝から夕方までずっと居て気が付いたことがあったんですね。朝から夕方までずっと一日居て気が付いたことが。それは何かというと、「障害者の相談が多いな、障害者いっぱいいるなって」と思ったんですね。多いときは一日6人も7人も来るのですよ。「そうか、本土の社労士みたいに障害年金をやってみようかな? これをメインにすえれば俺は生き残れるかも」と思ったのです。

「よし、障害年金の請求代行をやるぞ」と思ったので、自分は障害年金請求支援をメイン業務に据えました。この瞬間王道業務はやめると。業務ソフトの契約を解除しましたね。県会でみじめな状況の俺でも声をかけてくれた数少ない同業者へ宣伝をし、近隣や大規模団地へのチラシのポスティングをしたり。
最初に声かけてくれた宇野先生が業務推進委員長を務める、県会の委員会に参加しまして、そこで自分は障害をやりますと宣言して。そしたらその委員会で親しくなった先生がお客様を紹介してくれるようになりました。県会の新年会に出席して、みんなの前で三線持って歌をうたって(笑)、名前と顔を売る。また、チラシ反響もずっとまいていたせいもあってか、それなりに出てきたんですね。ほんとに、奥田先生が実践塾の場で言われていたかと思いますが「思わぬところから仕事は来る」のですよ。

それでも軌道に乗れるまで多くの時間と経験が必要でした。まず障害年金申請は、ある就労支援センターからの紹介でお話がありました。その方は現在人工透析の患者様です。14歳くらいで糖尿病を発病されてインシュリン注射をずっと受けている方。2年くらい前から透析をやっているとのことだったのですね。でもその方、自分で年金申請しようとして挫折している。なぜなら糖尿病と初めて診断された病院へ問い合わせをしたところ、「カルテはありません」と言われた。それで途方に暮れていたんです。障害年金は、その傷病として初めて医師の診察を受けた日が初診日です。透析開始時点ではない。この方事情があって20歳以降はけっこう保険料の滞納期間が多い。14歳時点での証明が取れないと2番目以降の病院で証明書は取得しますが、その場合却下の可能性が限りなく高くなってしまう。
さあ、どうするか? 初診日の証明は当然当時の病院から「受診証明書」を発行してもらう必要がある。ただし、カルテの内容を細かく記載しろとは書いていない。カルテはなくても、大病院でしたら入院や通院記録があったり、電磁記録という形で残っていることがあります。
私は受託してでしね、その病院に依頼文書を書いたのですが、その中には「単なる入院通院記録でも良いので、何かしら資料等保存されていたら何卒作成をお願いします。いつまでも待ちます」とね。そしたら東京の大病院でしたけど「電磁記録があるので、それに基づいて作成します」と電話がありました。
実際発行までは、その方途中で養子縁組していたので名前が変わっていたり、住所も今は沖縄ですが当時は関東でしたので、その人患者様本人か確認が取れないから、同一人だとわかる戸籍謄本や戸籍附票を送ってくださいと言われたりで大変でしたが、証明書が発行されればもう大丈夫。透析は2級が保証されていますから、お客様には自信を持って制度の説明ができましたし、事後重症でありましたが、無事認定を取れたのが自信になりました。ただこれはほんとに小さい自信でしたし、これが自分にとっての「結果」を出した初仕事でありました。

初仕事を決めたら、あとは経験を積んでいくのみです。この後も、精神障害の方の認定をとったり、20歳前傷病の方で何も病院の証明がないケースをやって。これは申請の際に市役所の方は絶対無理だと私に対して言っていましたけど、これも決めました。市役所の方は私が決めたことを知ってビックリしていましたね。これが自信になっていきました


5 その道の第一人者になる

今では親しい先生方が何人もでき、障害のお客様を紹介してくれますので、チラシをポスティングすることはなくなりましたね。また、会の会合や研修の場に出ても、俺は障害しかやっていませんからと、自信をもって言えるようになった。つまり労働分野や顧問先の話題についていけなくても平然とスルーできるようになったのですよ。下を向いていることが少なくなった。「顧問先とった?」とか「どう景気は?」とか、そんなことも誰も自分に言わなくなりましたね。中島は障害年金オンリーだという認識ができてきた、それは自分で築き上げてきたものなのですね。自分が頑固で、ひねくれ者であるからということもあるのですが。

ただ、紹介が多くても、契約して決めないと報酬になりませんよね。障害の場合は、納付要件がダメな人をいくら引き受けしても意味がありませんから。
つまり委託契約に至るまでの精度を高めることが必要だなと感じたわけです。また、報酬をきちんと回収することも大事です。等級が決定されると翻る客もいますよ。私もとりっぱぐれになったらまずいので、契約書にペナルティ条項を追加したり、逃げる客は内容証明で脅したりで。たとえ、回収できなかったとしても、相手に俺を敵に回したというダメージだけは与えてやろうみたいな(笑)。
いつでも、逃げるのなら法的回収やるぞ、差押やるぞ、みたいな備えだけはしていますね。JA時代は債権回収担当でしたので(笑)。

今、自分は、自分の業務については、初回相談は無料ですよと宣伝しています。どんなに遠くても沖縄本島であれば会いに行きますね。で、まずはお客様の話を聞いて、申請が可能かどうか判断する。そして自分は報酬の件や業務の範囲を説明する。1回目の相談でお客様の話を聞いて、条件提示するから、お客様も、俺との1回の面談でYESかNOか判断してよと。
つまり委託する前の無料段階での相談を、2回も3回もやってはだめなのですね。奥田先生は、実践塾の中で、自分の時給がいくらなのかを意識しなさいとこの場で言われたはずです。社会保険労務士は社会貢献も必要ですが、特に障害の場合は高度な専門知識とかハイレベルな情報を提供しなければなりませんし、自分のありったけの力をその依頼された業務に捧げなければならないのです。それは裏を返せば、報酬を頂ける方に捧げるべきことであるのですね。
自分の専門的な高度な知識や経験は、いつまでも無料提供してはいけないのです。つまりお客も1回の面談で僕を信用するかしないかですから、自分も選ばれる立場であるということ、自分を選んでもらえるアプローチをどうやるか、そこが毎回の課題であります。

今ではおかげさまで、県会でも「障害年金は中島」と認識されてきたようですが、先輩方では私以上の実績がある方もいますし、審査請求まで手掛ける先生、大学で教鞭とられる先生もいます、社保庁OBの先生もいますから、なんとか自分がこの分野ではエースに近づけるよう、今後も頑張るのみでありますし、他県では大規模に全国対応で障害年金代行をされている事務所もあります。そのような事務所がね、弁護士や司法書士の過払い金返還ではありませんが、沖縄に進出されて、ダンピングされたら。ひとたまりもないので、そこは俺が食い止めようと(笑)。
食い止めるためには、その道の第一人者にならなければだめだと。

「その道の第一人者になる」これは私がこの仕事をやる前JA職員だったころに当時の上司から言われた一言です。「専門的な人間はその部署がお前を手放さない。あちこち異動になるということは、専門ではないということだ」と言われまして。これは、私が職場で女性問題を起こしたということで、不本意な部署に異動になったときに、言われたのです。この仕事をして4年経過しましたが、ようやくその言葉、その道の第一人者になるんだという意識が芽生えてきましたね。芽生えてきたので、今回は奥田先生に再会したいという気持ちもありましたが、上京したわけです。

6 自分だからできたこと

自分が社労士として軌道に乗せるためには、自分はどのタイプになるのでしょうか? 「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」のたとえがありますよね?
例えば信長タイプですと、とにかく自分の思うがままに突っ走る。で自分に合わないことは切り捨てるといった感じでしょうか? 自分の提案に対し振り向かない客はもう相手にしないと。また次へ行くと。
一方秀吉タイプは、「鳴かぬなら 鳴かしてみせよう」でしたね。お客様に断られても、提案力や企画力、それと人柄を駆使して、お客様を獲得するタイプなのでしょう。優秀な営業マンの方は当然秀吉タイプでしょうね。

私は、自分を家康タイプだと思っているのですね。「鳴くまで待とう ホトトギス」です。とにかく、待つ。相手が振り向くのを待つ、声がかかるのを待つ。下駄は相手に預ける。ただ、家康はただ待っていたわけではないですよね? 天下を取るまで何もしていなかったわけじゃない。秀吉から静岡の領地を取り上げられ江戸に鞍替えされた。当時の江戸は何もない荒れ果てた町だった。それをこつこつ町作りして、朝鮮出兵もうまく断った。ここで、力を蓄えていましたよね? 一方裏では政略結婚をすることで地方大名を味方につけていきましたよね? 地道なことをコツコツやって来たから関ケ原で勝利したわけです。

自分だからできたこと、の一つ目です。私自身がマメであることだと思いますね。奥田先生から礼状を書くことは教わりましたか? 意外にバカになりませんよ。私は、6期生のMLで、礼状書いているといったら「そんなことやっても無駄」と批判されるメンバーもいましたよ。でも、自分を曲げなかった。例えば、数年前なんですが、沖縄社労士会とゆうちょ銀行とで年金相談の派遣契約をしていて、郵便局での相談会があるたび県会は会員を派遣して相談対応していました。私も数回出番がありまして、そのときにお会いした方には礼状を書いてきました。それからしばらくして、社労士会とゆうちょ銀行とで条件が合わないとのことで相談員の派遣契約がなくなったんですね。
その後、ゆうちょ銀行からは、私個人に相談会の依頼をしたいと話がありました。どうしてですかと聞きました。「今までいろんな社労士が来たけど、あなたが一番えらそうな態度をとっていないし、情報提供もしてくれる。人当たりもよい。また礼状くれた人は今までいなかった」と言われて、それからは私が専属みたいな形でなったのですよ。まあ、単価は会からの派遣時に比べて下がったのですが、その代り私は、単価下げてよいから全部仕事は自分に回してほしいと言いましたね。
まあ、はがきや手紙を書いて出すっていうのは、郵便業務を推進する立場からすればそりゃ理解のある良い客ですよね? まあ、ゆうちょ銀行は去年から担当者が代わって、残念ながらもう仕事は来なくなったのですが(笑)、でも、私のやり方は間違っていなかったでしょ? というか、ああ、ほかの社労士はこんなことすらやらないんだ? って思いましたね。

それから、例えばメールをして返事をお願いしていても3日も4日も無反応な社労士もいます。話になりませんよね?
私に障害年金を委託していただいたお客様でですね、私の前に複数の社労士に連絡したと、そしたら一週間たっても連絡が来ない。電話帳で別の社労士に連絡をとったらお宅を紹介された、と言われたことがありますよ。ほんとかよって思いませんか? やるやらないは抜きにして返事くらいできるだろうと。そのような常識を知らない? 方に俺が負けることは許されない。
お客様にしても、同業者等のメールや電話にせよ、24時間以内に返信をするのが当たり前ですよ。ですが、多忙ですとパソコンメールをその日のうちに確認できないこともありますよね。それではまずいと思いますので、パソコンメールもiPhoneで即時に閲覧できる設定にしておくと良いですね。

また今時PCが使えない先生もいます。書類はきれいに美しく作成する。例えば障害年金の申請では病歴の経緯を記載する申立書があるのですが、あの書式は通常年金事務所でもらって手書きで書くのですね。でも我々社労士が手書きすることは許されない。見苦しいだけですよ。DLした書式を使うと。
それと、依頼した客が「さすが社労士だ。私ではこんな文書は作れません」と思わせないといけない、ああ、これなら私でもできたのに…と思われたのではプロ失格なので。文章力は特に障害年金代行をやる方は必須ですので、いろんな小説読むとか、コラム読むとかで身に着ける必要があると思いますね。
今私は、沖縄県会での「業務推進委員会」と「成年後見制度推進委員会」に所属しているのですが(平成29年5月をもって終了)、議事録ひとつ作成するにしても、ここまでやる人はいないと、文章力を見せつけると、こいつ頭が悪くないなってことを知らしめる。そういったことが必要かと思われますね。

自分だからできたこと、の二つ目は、手を挙げるということですか? 私がこの実践塾で先輩社労士がおっしゃっていた言葉だったのですが、自分も実行しました。そしたら大学病院のがん患者さんの就労支援相談の仕事がとれたんですね。これもただやりますでは無理だろうと、思いまして。
一昨年の年末の頃なのですが、「琉球大学医学部附属病院がんセンターでの就労支援相談員」の募集があったのですね。その募集があったときに、「これは俺のやるべき仕事だ。これは俺がとらないといけない」と思いましたね。でも、実績も実力も諸先輩方より劣っている自分がどうだろうか? どうしたらとれるか? と思いました。
自分は自分の自薦状を書いたんですね。要は、自分はこれとこれができます。こう対応します、この分野は私の事業の根幹だと、他の社労士より的確な回答ができますと、アピールして応募しました。そして大学病院での相談員の仕事を獲得しました。社労士会は私を推薦してくれたのですね。

後で選考に関与した関係者に聞いたところ、自薦状まで書く人はあなた以外いなかったと、意気込みがまったくちがうと言われましたね。嬉しかったのは、手を挙げた先生方の中には大ベテランの方もいました、医療機関出身の方や医療労務管理の専門の方、行政機関OBの方もいたそうです。そんな立派な経歴の先生方を差し置いて自分が選ばれたってことでしょうか? 俺のような何の才能も、専門分野もない、公私とも誇る実績もない、一流の大学を卒業したわけでもない、肉体もぼろぼろで心も貧しい、ないないずくしのこの俺がですよ。
ただ、自分はほかのオエライ先生方よりは多くの苦悩を経てきている、「先生」と言われて、それを黙ってお受けするだけの苦悩は経てきたとね。わら一すじの自負ですよ。その経験はきっとがんの患者様に伝えられる、俺だからこそ困っている方や、弱い立場の方に少しでも自然に接することができると。今は特にそういった思いが強くなってきています。

話が脱線しましたが、沖縄と違って皆様の場合、首都圏や中京圏、関西圏といった大都市での開業ですから競争相手は山ほどいるし、各都府県会が実施する事業も多くの会員が志願するでしょうから競争が激しいはずです。ですのでこのやり方が適切かどうかは何とも言えませんが、ただ黙って手を挙げるよりは良いのではないでしょうか?
本来の社労士の業務は顧問先・クライアントを確保し、労務管理や保険手続、コンサルティングがメインであり王道です。王道つまりありふれた幸せ、社労士としての幸せはまさにこれです。僕はそれができず実践塾の邪道になったわけです。ありふれた幸せに背を向けたわけです。でも、背を向ける勇気が自分にはあったのですよ。
競争の激しい地区でこれから開業される先生が、王道で攻めていくのはよっぽど腕に自信がある、人脈があって営業力に長けている、とかでないと、私のような回り道や失敗を繰り返すことになります。
でも、開業実践塾の良さは、いろんな人がいていろんな考えを持っていて、それに合わせて自分が変化していけるのが一番良いところだと思います。ですので、今は開業しようかしないか、悩んでおられる方もいるかと思いますが、いろんな方のお話を聞いて、自分が変化していく過程を楽しむのもよいのではないかと考えます。

ということで、僕の体験談の話はこれで終わりです。では、時間が多少余ったようですので、質問をお受けします。

日比谷線に乗る中島(秋葉原駅にて)

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